僕が中学生になるころ「世界に一つだけの花」という歌が流行った.「ナンバーワンになれなくてもいい,オンリーワンだ」などという歌詞がとても嫌いで,そんな曲が大流行する自分の国が最高に嫌いだった.映画やニュースの中に映るアメリカは,デカくて強くて自信にあふれていて,それでいて身勝手で,大統領がわざわざ口に出すまでもなく「アメリカ,ファースト」だった.それが自分の祖国よりも1000倍カッコよく見えた.留学したいな,と思い始めたのはこの少し後だった.
さて,去る7月末に博士論文の審査を突破し,その3週間後に論文の最終版を提出し僕の博士課程は終わった.2013年の8月に入学したので,ちょうど5年間の博士課程であった.
僕の博士論文は,自己位置推定と環境地図作成を同時に行うSimultaneous Localization And Mapping (SLAM)という技術をGPSを用いずに着陸するUAVに使用するものである.画像処理による物体検出など,測定誤差に多分の非線形性を含むセンサーも加えSLAMを使用するためには,一般的にSLAMに用いられるExtended Kalman Filter(EKF)やUnscented Kalman Filter(UKF)では都合が悪い場合が多い.特に,僕が提案したUAVの着陸に適した物体検出の手法はこの影響が大きく,単にEKFやUKFに組み込むだけでは正確に推定を行えない.僕の論文はRao-Blackwellized Particle Filterといって,非線形性を多く含んだり正規分布から大きく離れたものをParticle Filterで推定し,その推定値の統計をEKFに反映させ残りの状態を推定する手法をUAVに用いたものである.シミュレーションに加え,実際に100kg級のUAVを飛ばして手法の検証をした.これでGPSがなくても着陸できるというわけだ.(聞こえる? 桂… GPSの信号がない.)
在籍中は,最初の2年間を船井財団に奨学金を通して支援してもらい,残りの3年間を指導教官にGraduate Research Assistant(GRA)として雇ってもらうことで生活した.GRAとして雇われている間は,NASAのプロジェクトでUAVのフライトシュミレーションの作成に参加した.Unmanned Aircraft System Traffic Management(UTM)と呼ばれる,次世代の無人機管制システムの開発の一部を担うものであった.(論文はこちらのNASAのウェブサイトで公開されている)GRAの仕事以外では,多くのUAVの大会に参加しアメリカ国内,国外をUAVと大容量のバッテリーと共に旅をした.参加した大会の1つでは優勝し,ラボメイト達と賞金を山分けにした.インターンも経験し,アカデミア,民間,政府(NASA)と様々な角度からUAVの研究開発に関わることになった.
在籍中に結婚し,卒業と同時に息子が生まれた.来月はシアトルに引っ越し,Research Scientistとして就職する.UAVを用いて荷物を届けるプロジェクトに参加する予定だ.卒業,出産,引っ越し,就職といくつものできごとが同時に訪れ,博士課程の終わりは僕の人生の第一章が終わった感を連れてきた.
学部生の時にも留学していたので,アメリカ滞在も7年目に入った.20代も8年が過ぎ,そのうち6年をアメリカで過ごしたことになる.20代といえばまだまだ頭も柔らかく,新しいアイディアをすぐに吸収できる気がしていたが,三つ子の魂百までというのか,あるいは自分が日本人だからか,自分が長い間当たり前だと思っていたことを考え直すのには自分自身の経験が必要なのかな,と考えたりもする.
いくつか留学中に経験した例を挙げたい.アメリカのQualifying Examでは半数近くの学生が落第し修士号と共に大学を去ること,中国人のビザは再申請が難しく一度帰国するとアメリカに帰ってこれないこともザラにあること,大学を出たばかりのガキんちょに1000万も2000万も払う企業が多く有ること.どれもインターネットで調べれば簡単に見つかる情報だし,僕もアメリカに来る前から知っていたことではあるが,自分が経験しないと100%信じることにはならないのかもしれない.友人達が博士を取れずに去っていったり,「また来学期ね!」と軽く挨拶を交わした友人が中国から帰ってこれなかったり,あるいは自身のオファーレターを見てはじめて,「ネットの情報は本当だったんだな」と思ったりした.月並みな表現だが,結局色々な人や事実にさらされることが留学の価値の一つである.
終わってみれば一度も自腹を切ることなく逃げ切ったアメリカでの留学生活だが,一時期は多額の借金も覚悟したほどの波乱ぶりであった.もともと外国人に出せる予算のほとんどない研究室だったことに加え,指導教官は他大学に引きぬかれて研究室は消滅.プロジェクトは終了.企業就職という選択肢は,留学中悩まされ続けた切実な経済的な心配からの開放とも言える.衣食住を煩わずに生きていけることは居心地がいいが,この安定を失うことを怖れる故に,挑戦しないような人間にはなりたくないと思っている.新しいものに挑むのは,その先に安定があるからではなく別の新しいものがあるからである.
今から人生の第二章が始まるなら,そんな挑戦や成長の意識を忘れないものにしたい.僕の人生の第一章は,言うならば様々なところに種を撒く作業であった(下ネタではない).博士号を取ること,仕事を得ること,アメリカで行きていける人間になることを果たし,小さな芽は出たのかもしれない.これ自体が大変なタスクであったことに間違いはないが,ここで満足して収穫してしまうような小さい人生にしたくない.僕はこの先にある目標があってアメリカに来たのを忘れないようにしたい.冒頭にも書いたが,ナンバーワンになることを目指さなければ結局最高のチャンスはやって来ないのだと僕は思う.博士号や割のいい仕事そのものを目標にしてこなかったからこそ,そういったものが気がつけばいつの間にか手の中にあり,次のステップのチャンスが巡ってくるのだ.
僕が航空宇宙工学を志すことになった一つには,子供のころにみたアニメの思想がある.僕は結局そのアニメと同じように,人類が重力から解き放たれて宇宙や別の惑星で生活を始めれば,新しい力に目覚めると信じているわけだ.僕が厨二な人間であるのは間違いないのだが,我々の祖先のことを考えれば何も新しい発想ではない.人類がどういう過程で二足歩行に至ったかに関して,専門家の意見は一致していないが,最初期のヒトの祖先は木の上で暮らしていたと言われている.居心地のいい住み慣れた木の上で暮らしていれば,我々の祖先は二足歩行やopposable thumbには至らなかったのだ.手を使い,道具を作り,この惑星を支配するに至った課程で,新しい物に触れ,新しい能力を身に付け続けてきた.留学することも宇宙を目指すことも二足歩行をはじめることも,そんな共通の興奮が待っているのではないだろうか.この乱暴で規模が大きい結論を,僕の博士留学の感想にする.
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