2年間授業料と生活費を頂いた船井財団の奨学金も終わり,2015秋セメスターからは博士の学生をやりつつ研究スタッフ(Graduate Research Assistant,俗にいうRA) として働いている.前セメスターは論文も2本通り,査読の仕事も回って来たりして,ずいぶんとPh.Dの学生らしくなって来たというところだろうか.
時間を割く中心が授業やクオル(前回のブログ参照)といった大学のカリキュラムに従うものから研究へとシフトしつつある.研究は入学時からずっと同じ研究室でドローンの研究をしている. 画像処理とドローンを組み合わせてGPSがなくても室内探査ができるようなシステムを開発している.これを使ってこの5月にAHS (American Helicopter Society)が主催する大会で優勝した.現在は機械学習を取り入れた経路設計なども手を出していて,ややAI寄りの研究になっている.ドローン+画像処理+機械学習といったテーマでの卒業を目指す.
(AHS MAV Student Challenge, ターゲットの自動認識,GPSなしでのドローンの自律飛行などが重要な大会だった.)
RAになってから少し生活が変わった.雇い主である教授からは雑用が降ってくるようになったし,自分の研究の他にスポンサーに対する成果も挙げないといけない.今までのように好きな研究だけしてるわけにはいかない.雇われるというのはこういうことなのだろう.RAをすると授業料が全額免除になり,給料も月に$2000(約25万円)ほどもらえる.米国大学院学生会の留学説明会などで「アメリカの博士課程はお金の心配をせずに生活できる」などと言うのはこのためだ.僕も登壇するたびに似たようなことを言っていた.
ただ,心配せずに…というのは嘘だと思った.これは研究室にかなり左右されるのだろうが,少なくとも僕の研究室の留学生は常に次の半年をどうやって生活するか考えて精神を擦り減らす.航空宇宙工学系ではよくある話だが,研究費の多くは軍や国防関係から出ている.この予算の大抵は留学生にお金を出すことができない.僕の研究室には現在アメリカ人3人,留学生5人の博士過程の学生がいる.アメリカ人3人は全員RAとして雇われているが,留学生でRAをもらっているのは僕だけだ.その僕の予算も,小額の予算を足し合わせてなんとか一人分捻出しているといった感じだ.前セメスターの予算が出ると決まったのは支払い締切り2日前で本当に胃が痛かった.他の留学生はTA(Teaching Assistant, 教授に代わってラボの監督などをする)やGrader(宿題の採点係)といった仕事をしながら博士過程をやっている.TAやGraderはRAほど給料をもらえない上に業績にならない仕事をすることになるので卒業も大抵の場合遅れる.さらに,夏はほとんどの授業がないのでTAやGraderは給料がでない.僕がアメリカに来る前に想像した「お金の心配をせずに…」などという生活とはほど遠い.常にお金の心配をしていて少し疲れてしまった.
疲れると言えば最近はまた少し英語でも疲れる.僕は学部のころにも留学していたので,アメリカ生活も4年目が終わりかけ.日常の英語は特に問題なくなった.ただ,RAになってからはスポンサーの人の案内やラボの外の人間との共同ミーティングなど気を遣って話さないといけない場面が増えた.インターンシップも探していて,いうならば英語で就活を行っているわけだ.常に「失礼な表現してないかな?」と考えながら英語を書いたり話したりしていて少し疲れた.英語の能力アップにはここが頑張りどころだろう.
とはいえど,これは全て自分の選択の結果である.アメリカの航空宇宙の世界に憧れ,アメリカで働くためにアメリカの大学院へ来た.全て自分の思い通りにいっている故の苦労である.日本の長時間労働のように,苦労していることそのものを美化するわけでは無いが,安易な道に慣性で進まない選択は自分の誇りである.
選択,ということで少し昔の話をしたい.僕は病弱な子供だった.小学生の低学年は喘息の発作を起こしよく学校を休んだものだ.小学1年生の運動会の練習中に発作が出て倒れて入院し,運動会に出られずに泣いたことをよく覚えている.自分だけ学校に薬を持って行き,それを隠れて使うのがとても嫌だった.だから僕はよく走った.体を鍛えるのも日課になり,小学校の卒業アルバムで既に腹筋が割れている.低学年のころは妹よりも遅く帰って来ていたマラソン大会も,小学校の6年生の時には学年1番で帰ってきた.その10年後には1日に300km自転車で走れるようになり,自分の足で琵琶湖の空を飛んだ.仙台から実家の三重まで自転車で帰ったりもした.母や祖父母達は今でも「子供のころはあんなに弱かったのに丈夫になったねぇ」言う.自分でいうのはアレだが子供の頃から勉強はとてもできたので,ひ弱な秀才キャラとして育つ選択肢もあったわけだ.だが,授かったものだけを頼りに生きていかない自分の選択が僕の誇りである.
選択と誇り
あなたは何を誇りに思って生きたいだろうか?もし生まれた家が裕福ならば,多くの指標であなたは恵まれているが金持ちの両親を誇りにして生きるのだろうか?もし子供のころから外国語の教育を受け,2,3ヶ国語話せるなら,多くの指標であなたは恵まれているが物心ついたときには既に身についていた能力を自慢してその先も生きるのだろうか?
僕は恵まれた人間である.決して裕福な家庭に生まれた訳ではないが,大学卒業までは両親の援助を受けていて,お金の心配をせずに自分の好きな勉強や部活動に取り組めた.両親の理解にも恵まれた.実家の三重県から遠く離れた仙台に進学することも,そのまた遠く離れたインディアナやアトランタに留学することも,反対されたことは一度もない.そして僕は運もいい.人生の早い段階で,飛行機やロボットといった自分のこれからの人生を賭けてもいいものに出会えた.自分の人生における「これだ!」と思えるものに早く出会うか,遅く出会うかなど,人間の価値を決めるものではないはずだが,世の中そんなにうまくはできていない.進学にしても就職にしても結婚にしても,あるタイミングを逃すととたんにチャンスが少なくなる.早く見つけるだけうまくいく確率は上がる.孔子でさえ「吾十有五にして学を志す」というので,それよりも早くからロボットや飛行機に夢中になれた僕はとても運がいい.
ならば,自分の恵まれた境遇や運の良さを誇りにして生きるのだろうか?
僕はそんな人生は嫌である.もしも僕に子供ができて,いつか「パパはすごいんだぞ,だってな~」と自分の人生を語るとき,才能や履歴書に載っている賞状などを自慢するより,僕は自分が人生の節目節目で行ってきた選択の一つ一つを息子や娘に伝えたい.病弱な子供が自分の足で空を飛ぶことを目指したこと.なまった英語でアメリカの大学院に来たこと.目の前の一流企業よりも,外国人に門戸を開かないアメリカの航空宇宙工学を目指したこと.こういった選択は,鳥人間で日本一になったという結果やアメリカの一流大学の学位そのものよりも誇らしい.僕の人生は惰性じゃない.一つ一つの,苦労と逆境へ進んだ選択の結晶だ.語るのならば,そんな人生の方が美しい.
辛い時間を乗り越えるためにそんなことを考える.苦労多き留学生活である.
22 Comments
Leave a reply →